イヤールの月 9日
週の始まりの製薬商会での集会が行われた。
今どこにいるかははっきりとはしないが、市外に出ていた弟子と徒弟たちが戻ってくる予定が迫っている事を伝えた。
ここ数か月の手紙で聞く限り、この国の都市はどこも景気が良いようだ。
商会の薬の販路と店の拡大のために、各地方に弟子たちを派遣してきたが、そろそろ次の段階に進むときかもしれない。
問題はどこへ行くかだが……。
そういえば店の売上もそろそろまとめなければならないな。
弟子たちに分配する時期が来ている。
カミルとトマシュを呼んで、近いうちに最終報告を出そう。
イヤールの月 10日
街を散歩していると、商会の店の隣に新しい店が出来ているのに気づいた。
中に入ると、手作りの彫刻や小さな装身具類が棚に並び、なかなかに細かい細工がされていて見応えがある。
年若い女性が店番をしていたが、私に気づくと人懐こく話しかけてきた。
この店は、近場で採掘した石を加工したり、別の都市から買い付けてきた物を加工して販売しているようだ。
店番の女性はアンナと名乗った。
私が店の品物を褒めると非常に嬉しがり、耳打ちするように、実は、この店の品物、私が作っているんです。でも、内緒にしていてくださいね、と言った。
しばらく品物を眺めてから、また来ると伝えて店を出ようとすすると、おじさま、いい方だから、一つお好きなのあげましょうか?と笑っていわれたが、一応そこは丁重に断っておいた。
褒められて彼女が嬉しそうだった理由が良く分かったと同時に、彼女ほどの腕が有るものが、もったいないとも思う。
女性は基本的に、こういった職人にはなれない。おそらく名を伏せて売ることでしか店に並べることはできないのだろう。
それでも店に立たせてあげたいと思う良心的な店主がいることはいいことだ。きっと良い店になる。
彼女のような人が認められる世の中がくるといいだろうな、と思いつつ帰路についた。
イヤールの月 11日
プラハ・カレル大学の教授が家に訪ねてくる。
私のような異端者に研究の相談をするような変わり者だが、熱心で話が合う。
もちろん教団の事も知っている。
私がずっと密かに行っていた研究の事もだ。
それを含めて、私をかってくれているのはありがたい。
大学の医学部でも日々、様々な薬の研究がおこなわれているらしい。
話ははずみ、ついつい時間を忘れる。
こちらで試作した薬を持ち帰るとのことで、教授は興味津々で品物をみつめていた。
あれが役にたつのかどうか分からないですよ、と心配したが、それが面白いんじゃないか!と教授は目配せして帰って行った。
本当に変わった人だ。
しかし、教授から聞く大学の話はとても面白い。
数年前に建てられたばかりとはいえ素晴らしい発展をしているようだ。
私がもう少し生まれるのが遅かったなら、そこで学ぶ道もあったかもしれないな。
これから、どのような学びの場となっていくのかが楽しみだ。
イヤールの月 12日
教団の様子を見に行くと、久しぶりにダニエルに出会った。
近頃体調を崩して休んでいたが、復帰したそうだ。
もういい歳なのだからあまり無理はしないでほしいと伝えると、先生にそれを言われちゃこっちが参っちまいますよ、と頭をかいていた。
確かに、彼に言うならば私も引退するべきだな、と互いに笑いあった。
無理はしないでもいいが頑張ってくれ、と言い直しておいた。
ダニエルの嬉しそうな顔を見ていると、私もまだこれからもやっていけると思える。
少しでも長く生きていたい、なにかに取り組んでいたい、そして知を極めていたいという想いは誰にでもあるものだ。
私にも、もちろん。
それに、今の私にとって、長く生きたいと思う気持ちが、1人でどこまでも探究し続けていたいから、というだけの理由ではなくなったのは、嬉しい誤算だった。
この教団の人々にも、そして私のために居てくれる妻にも感謝している。
まだまだ、先は長い。
イヤールの月 13日
派遣していた弟子たちの殆どが帰ってきた。
報告を聞く限り、順調に事業は拡大しているようだ。
弟子の一人が、あちらで沢山儲かったからと言って、モラヴァ地方で手に入れた交易品を様々に持ってきた。
美しい手工芸品がずらりと並び、思わず目を奪われた。
色とりどりの手織物や、様々な鉱石を細工した置物。
薬品ではないが、この手の物を新しく別の商会で扱うのもいいかもしれない。
一緒に検品していたカミルが、きれいですねえ、と褐色の玉を手に取って見ていた。
琥珀という、古代の自然物の一部が変質した物質だ。
これは薬としても、実験の材料としても優秀なものだが、見た目も美しい。
蜜のような色は、味はしないだろうが、軽くとろけるような手触りだ。昔、一度だけ見たことがある。
不意に、この珍しい品を見て喜んでいる妻の顔が思い浮かんできた。
ぼうっとしていると、カミルのやつが、先生、奥さんのこと考えてました?と言ってくる。
こいつ、なんで鋭い。
これはいい品ですよ、この前言ってた贈り物に最高じゃないですか?としたり顔で突っ込んできたが、そんなの私も今ちょうど気づいたとこだ。ちょっと黙ってろ。
にやにやしているカミルが癪だが、持って帰ることにした。
さて、これをどうするか。
とりあえずは私の机にしまっておくことにする。
イヤールの月 14日
安息日の前日だが、ようやく最後の弟子が帰ってきたところで、どうしても今日中に決算をしておかなければならないため、カミルとトマシュを呼んだ。
トマシュは商会の会計を担ってくれているが、これで弟子たちからの報告がやっとまとまったと、書類を渡してくれた。
この国の領地内である各地方に人を派遣していたが、どこもそれなりに成功している。
弟子や徒弟たちへの分配も、週明けには適切に行えそうだ。
この結果を受けて、これからの店の拡大について、ぼんやりとだが少し考えていたことを伝えた。
カミルもトマシュも、そこはまだ急ぐところではないという意見だった。
とりあえずは商会の経営の安定を第一に、足場を固めていこうという意見で一致した。
あとの処理は二人に任せることにすることで結論づけた。
確かに、火急の計画というわけではないからな。
少し、逸ったかと思いなおす。
だが、心には留めておこう。
イヤールの月 15日
今日は息子があの野原の広場に行きたいというので連れて行った。
妻は家で休んでいたから、久しぶりに二人きりでの外出だ。
息子との遊び場に使っていたのは、私がまだ妻と出会う前、さらに言うなら自ら教団を興そうとする前に、一人でこもっていた修行場の一つだ。
迷いそうな山の森の中を抜けていくと、突然開けて高原のようになっている。斜面には小さな洞穴があり、私はそこに一時期暮らしていた。
花が咲き、鳥がさえずる音が聞こえるような静かな場所。
まだ暖かいこの季節に散策するにはちょうどいい。
遊び盛りの五歳、息子は好奇心いっぱいに駆けまわっていた。
一緒に住み、お父さんとは呼んでくれるものの、あまりにも若い妻との年齢差がありすぎて、私の事を、本当はどこかのおじいちゃんだとでも思っているのではないかな。
それはそれで別にいい。
私も、まさかこの年で父親になるとは思っていなかったから、こちらもまだ実感がないのだ。
それでも、こうやって見ていると不思議といとおしく思う。
夕方になり、疲れて眠りこんだ息子をおぶって家に戻った。
家では妻が笑顔で待っていて、息子と一緒にベッドに入ってくれた。
私も、妻と息子のすぐ隣で久しぶりに眠ることにした。
二人を抱いて包んでもすっぽり入ってしまうくらい、私にはどちらも小さくてかわいらしい。
可愛い寝息を聞いているのも、贅沢な時間かもしれない。