シバンの月 22日
実家から帰路についた。
親切なことに、実家が所有している馬をまたも貸してくれた。
旅路をゆっくりと戻りながら、妻とはいろんな話をした。
私の故郷のことや、また、妻の故郷のこと。これから行ってみたい場所。
話をしている間に、あっという間に日が暮れてしまう。
息子は始めての場所への旅を楽しみすぎたのか、ほとんど帰路ではずっと眠っていたが、喜んでくれただろうか。
振り返ると、親子で旅に出かけることなど、ほとんどなかった。
この実家への旅を経て、ようやく、親子らしいことができたのか、とも思う。
それとともに、妻と息子と一緒にいるだけで、この時間はやはり尊いものだと、一瞬一瞬を、感じることができた。
そのことを伝えると、妻ははにかんだように笑って言った。
だから言ったでしょう、あなたは、そうしているだけでいいんです。私にとっては、そういう人なんです、と。
……妻は、今の一瞬、気づいていなかったのだろうか?
私のことを先生ではなく、あなた、と呼んだことに。
きっと無意識だろうが……
だが、その妙にくすぐったい響きを、私は、しっかり覚えたぞ。
次はいつ、呼んでくれることだろうな。
シバンの月 23日
ようやく旅から戻ってくることができた。
弟子たちは、私たちの無事を喜び、ねぎらってくれた。
実家への帰還を経て、改めて見た彼らの姿は、今までよりも、さらに頼もしく見える。
普段はあまりこんなことはしないが……弟子たちに一人一人、抱擁と感謝の気持ちを伝えた。
私が居ない間にも、彼らはちゃんと商会と教団を守ってくれていたようだ。
カミルの言ったことではないが、予行練習としては、一つまた安心した。
さすがに私もこの旅で疲れてしまったが、また新たな旅立ちに向けて、のんびりとはしていられない。
私が不在の間に、弟子たちが準備してくれていたことと、私が実家のシモンから預かってきた情報や協力者を突き合わせて、素早く処理をしていかなければならない。
ここからは行動あるのみだな。
日記もすこし手短に済ます。
妻も帰ってきたばかりで何だが、旅の準備を手伝ってくれている。
お互いに協力しながら、しっかりと整えていこう。
シバンの月 24日
今日は、準備の合間を見て、世話になった街の人々の顔を見に行ってきた。
街の人々、工房の弟子たち、商売相手になってくれている職人たち、裏路地通りで世話になった人々……
ここには記録しきれないが、ひっそりと挨拶をしてきた。
私が出かけることは、ギルドの親方たちには伏せているからな。
どこかの隠居旅にでも出かけて行ったと思ってもらえばいい。
そういえば、アンナの店で、奥さんにちゃんと首飾り渡しました?と聞かれる。
まだだ、というと、ええっ!と驚かれたが……
……大丈夫だ、まだだが、心配はしなくていい。
私が旅にでた後には、ちゃんと妻の首にかかっているはずだ。
妻にもこれから、アンナの店に遊びに行くよう勧めておこう。
この二人は、きっと話が弾みそうな気がするな。
シバンの月 25日
教団に立ち寄って、旅立ちの前の最後の引き継ぎとして、バラク達と話をしてきた。
ほぼ引き継ぐこともないが、あえていうなら、私が居ない間にもしっかり修行と瞑想にはげめ、くらいなものだ。
とはいえしばらく私が不在なので、色々困った時に頼りになりそうなことを伝えておく。
詳しくは手紙に残しておいたから、安心だろう。
一応、教団にある私の部屋の鍵も渡しておいた。
よっぽどの理由がなければ開けることもないが、どうしても必要なときには開けられるようにしておこう。
おっと……その前に、あれだけは回収しておかないとな。
私は、部屋の隅の机の中から一つだけ小瓶を回収しておいた。
これだけは、私が持っておかないといけない。
……バラク達には、すこし早いしろものだからな。
何かあった時には、私が最終手段として使うこともできるかもしれない。
そんなことは起こらないのが一番だが。
旅の間は、肌身離さず身に着けておくこととしよう。
シバンの月 26日
今日は、最後の仕上げと言ってはなんだが……
ようやく、妻にあれを渡すことにした。
アンナの店で頼んでいた、琥珀を美しい細工で包んだ首飾り。
……これまでにも渡そう、渡そうと思いながら、多忙にかまけて、そのままにしてしまっていた。
これをやっと渡せる日が来た。
こんなに旅に出る直前になってしまうとは思わなかったが……
思い起こせば、妻に贈り物をしようと思い立ったのはいつのことだったかな。あれは、カミルに言われたんだったか。
随分前のような気もする。
思い返せば、この数か月で、さまざまなことが変わっていった。
その一つ一つを思いだす度に、妻と過ごした日々の思い出もよみがえってくる。
今日もまた、遅くまで準備している妻の姿を見つめて後ろに立ち、
私はそっと後ろから首飾りをかけてあげた。
妻は驚き、振り返って私を見た。
何かを言おうとする前に、君への贈り物だ、と呟いて、そのまま後ろから強く抱きしめた。
この……琥珀という石は、薬にもなり、実験の助けにもなり、愛らしく、美しい。
私にとっての君そのものだ……と、どこから浮かんできたのか、口からそんな言葉がついて出た。
……少し違うような気がするが……うん、私らしい愛の言葉なのだろう。
妻はちょっと笑いながら、本当に嬉しそうに、ありがとう、といった。
これでいい。
私が旅立つ前にすることは、きっとこれで、やり終えたはずだ。
シバンの月 27日
とうとう明後日に旅立ちが迫った。
今日までに準備を済ませておかなければならなかったから、妻も忙しかったことだろう。
全ての事に感謝している。
本当にありがとう。
ついでにだが、私が留守の間、妻にこの日記を読みたかったら読んでもいい、と伝えておいた。
ちょっとしたお楽しみだ。
明日は一日ゆっくりと休み、弟子や近隣の人々と食事がてら、旅立ちの知らせをするつもりだ。
夕方には休まねばならないから、妻と息子とゆっくりとすごせる夜は今日が最後かもしれない。
妻には私がいない間にも安心して生活が送れるように、残っている弟子たちに言づけてある。
……が、正直、何をいっても、足りない。
いつの間にか、妻よりも息子よりも、私の方が寂しくなっているような気がしないでもない。
だが、別れのあいさつは、あえて手短にしておきたい。
昨日、首飾りを渡した時、これで離れていても、ずっとつながっている、と約束してくれた。
哀しい別れにならないように、私も、いつも笑っていてくれる妻のように、どうか笑顔でありたい。
笑顔は少し苦手だが……、頑張ろう。
シバンの月 28日
今日、安息日の一日は平和に過ぎ去った。
こうして、夜が明ける前に書いておく。
明日、イングランドへの旅路に出る。陸路から海路へとかなり長い旅になる。
帰ってこれるのは、何か月か後だろう。
私が居ない間の商会の仕事はいつも通りカミルに任せた。
あいつなら上手くやってくれる。
また、私の教えについては、バラクに任せる。あいつは指導力があるから立派に務めるだろう。
ダニエルも、トマシュも、他のたくさんの弟子全員が、
どちらの場所でも、お互いの弟子や、徒弟たちと仲良くやってほしいと願う。
さて、私は妻と息子がこうして寝ている間に出ていくつもりだが、いざ旅に出るとなると、やはり二人のことが心配ではある。
妻は息子につきあっているうちにすっかり眠り込んでしまった。
どうか、二人が穏やかに、安全に過ごせるように祈っている。
変わらぬ笑顔で送り出してくれる妻に、どれだけ励まされていることか。
実を言うと、息子は、いつも私が旅に出ることを良くわかっていないようだが、私が不在の間に、少しくらいはこの身勝手な父親を恋しがってくれるだろうか。
この前みたいに、帰ってきた時に誰?だなんて言われないことを祈りたいが……。
帰ってきたら、もう少しかまってやろう。
私の研究も少しずつ教えてあげたい。
だが、あえてこの仕事を継ぐことはない。
自分らしく生きていけるように道を示してあげたい。
その成長を見るのが楽しみだ。
さて、しばらくこの日記も空白になりそうだ。
もしかすると先日の私の言葉を真に受けて、妻がこっそり日記をのぞきに来るかもしれないな。
だが簡単には読めないだろう。
なぜなら、ちょっとした仕掛けをしているからな!
妻が目を白黒させる様子が思い浮かぶ。
頑張って謎を解いてくれ。
もしも、私が旅から帰ってきたときに読み切っていたら、心から誉めてやろう。
例えこの日記の中身がすべてばれていてたとしても……妻の前なら何も恥ずかしくない。……たぶん。おそらく。
では、この日記はいつもの場所にしまっておくことにする。
皆、元気で。
いつも、どこに居ても愛している。
それでは、いってくる。