シバンの月 1日
今日から月が替わる。
新月の祈りの日だ。
少し前から考えていたことを、行動に移そうかと思う。
先週、教授から、そしてあの学生から話を聞いて決心した。
西方で猛威を振るう病。
ここらの地方にはまだ到達していないせいで危機感がないのか、ギルドの長たちもとりたてて話題にはしていない。
半分隠居したような身の私だが、これを何もせずにいていいのか、という想いが日々募っていた。
……私は、独自にひっそりと西方へと向かい、薬を販売するルートを作ろうかと思う。
勿論大きな目的としては、販路の拡大も兼ねてではあるが、未知の病に挑戦してみたいという想いもある。
表向きは弟子に商会を任せて、しばらく西方の国々へと旅をしながら向かってみる予定だ。
ギルドからすれば抜け駆けのようなものかもしれないが、うまく悟られずに動きたい。
あちらでは出来るだけ身分を明かさず、行商人を装って隠密に行動できればいいかと思う。
そのために少し特殊な準備がいる。相談できる有力者を仰ぎたい。
思い浮かぶ限り、1人候補がいるが、どうするかな……。
迷っている暇はないか。
問題は誰と一緒に行くかだが、命の危険がないとも限らないし、今さら私の勝手に付き合わせるのも悪い。
なるべく1人で行きたいが……
悩みどころだが、早めに結論を出すつもりだ。
シバンの月 2日
昨日の件について、シモンに届けるための手紙を書いた。
シモンは、実家で働いていた職人の一人で、私が家を出る前にはまだ弟達の下で見習いとして修行していたが、今ではあの家で商売の顧問をしていると聞いた。
彼は顔が広く、独自の網をもっていたはずだ。
こんな時ばかり実家の権威を借りるというのも情けない話だが、きっとうまく行けば、旅の手配を取り計らってくれるだろう。
後は、妻に話をした。
息子を寝かしつけた後、妻に意を決して、旅に出たいという思いを切り出した。
妻は静かに話を聞くと、「先生がそう考えているなら、わかりました」と軽く笑って了承してくれた。
基本的に私が自分で考えて決めたことは曲げない質だとわかっているからだろう。
妻は、私が独断で今までにやってきたことも、これまでいつも応援してくれていた。
だが、今回ばかりはこれまでとは規模が違うし、私にだって、本当にやり遂げられるかはわからない。
どれくらいの期間で旅に出るかもはっきりしていないし、かなり長い別れになるはずだ。
しばらく会えなくなるのは確実だろう。
二人には寂しい思いをさせてしまうのに、それを顧みることもできず、湧き上がる自分の衝動に嘘をつけないでいる。
私は、悪い父親だと思う。
せめてそれまでにできる限りのことをしてやりたい、と妻に言うと、毎日を普通に過ごしてくれているだけで十分です、と言われた。
そんなことで本当にいいのだろうか。
私は家族に甘えているだけではないのか?
シバンの月 3日
今日は何となく一人きりで歩きたい気分で街に出た。
歩いているうちに、いつのまにか裏路地通りに辿り着いていた。
頭の中では、自分が新しく始めようとしていることについての迷い、好奇心、色々な思考が渦巻いていたが、一向にそれらは収まる気配がなかった。
本当にいいのか。間違ってはいないか。
問いかければ問いかけるほど、答えは見えなくなる。
それに、妻と息子の事。一度は決心しておきながら、私の決意が二人にどういう影響を与えているのか。私はそれをただ見ないようにしているだけではないのか。
黙ってうつむいていると、聞き覚えのある声がしたので振り返ると、孫を連れたゼーマン夫妻が立っていた。
私の顔をみて、気になって声をかけてくれたらしい。
弱音を吐く気はなかったが、つい妻と息子のことをこぼしてしまった。彼らのような夫婦と違い、私は妻や息子を愛しているとは程遠いのではないか。……
話を聞いた後、奥方が、それは奥様にちゃんときかないといけないわ、と私を優しく諭した。
黙っていてはわからないよ。私たちも、話して喧嘩して、仲良くなってきたのだから、と。
夫妻の言葉は、静かに私を励ましてくれるようだった。
礼を言って去るときも、頑張って、といってくれた。まだ幼い孫も、私を知らないだろうに、小さな手を振ってくれた。
……私もああいう夫婦になれるのだろうか。
帰宅した私を、妻はいつもと同じように迎えてくれる。
……そうだな、ちゃんと話をしてみよう。まだ私の決心がつかないが、いずれ。
シバンの月 4日
教団に赴くと、あちらの商会からカミルがやってきていたらしく、バラクを始め、弟子たちと談笑していた。
元々はあいつもこちらの弟子だから、よく定期報告にきているらしい。
弟子たちは私に気づくと、
「先生、あの誕生日の贈り物は、もう飲まれましたか?」と含み笑いをしながら近づいてきた。
いやまだ飲んでいない……というか、そもそも、確実に大丈夫なのか検証してから飲むべきだと思うが、と伝えると、なぜか大笑いされてしまった。
弟子達が語るには、
種明かしをすると、あれは長寿の薬でもなんでもない、
ただの酒だったそうだ。
ちょっとした洒落のつもりで言ったらしいが、私が真正直に受け取っていたと知るや、先生は真面目すぎます、と笑われてしまった。
恥ずかしいやら、つい乗せられてしまった後悔やらで思わず言葉に詰まってしまったが、
お酒が苦手な先生でも飲めるような優しいお酒にしたので、たまにはゆっくり飲んで休んでくださいね、とカミルはねぎらってくれた。
バラクも、酒は長寿の薬ともいうから、あながち間違っちゃいないでしょう。と笑って付け加えてきた。
……やり方はどうかと思ったが、皆の気遣いは伝わった。
私は弟子に恵まれたな、と改めて思う。
近いうちに開けて、久方ぶりの酒をゆっくりといただくことにしよう。私の記憶よりも美味く感じられるかもしれないな。
シバンの月 5日
月に一度の薬剤師ギルドの会合に参加した。
だがひと月前に出席した時と今現在とでは、私の心の中にあるものは、大きく変わった。
新月の日に決意したことは、このギルドの人々にはもちろん話せることではないし、話すつもりはない。
私は会合の話の内容を注意深く聞いていた。
ギルドの協定やこれからの進捗について、私の計画の障害になりそうなもの、また逆に、網目を抜けられそうなものを密かに覚えておく。
先月出た黒き病の話は、今回も相変わらず取り上げられることはなかったが、今度は逆に胸をなでおろした。
同席したカミルや、他の弟子たちにも、まだ私の気持ちは明かせていない。
なんとか、週末までには話そう。
どうやって切り出すべきかまだ迷っているが、きっと私の弟子たちならば正面から話を聞いてくれるはずだ。
そろそろ、実家にも手紙が届いた頃かもしれない。
シモンからの返事を待つ。
返答によっては計画を見直す必要があるが、希望は捨てずにおこう。
しばらくはもどかしい日が続くが仕方ない。日々やれることをしよう。
シバンの月 6日
シャブオットの祭が始まった。
このあたりでは農作業で生計を立てている者は少ないだろうが、一歩街の外に出れば、その収穫に感謝する儀式が行われている場所もあることだろう。
商会も、今日は休みにしてある。
祭に参加しない者も、一日の休みをそれぞれ過ごすことだろう。
私はというと、息子に本を読み聞かせていた。
収穫の一方、勉学に励む日でもあるため、休みの一日を使って読み進めていく。
一応、私の家にもまだトーラが置いてある。
幼い頃には擦り切れるほどに読まされたものだから、ほぼ体にしみついている。
同じように、息子に読ませながら、彼の答えを合間に聞き、会話をしながらページをめくる。
本を読むといっても、これは常に考える学問であったため、私が自分に問いかける癖や思考の向こう側を想像する基礎は、このトーラが作ってくれたに違いない。
1人では出せる答えには限りがあるが、誰かと共に問い過ごせるならば、さらなる高みにたどりつけるかもしれない、ということも。
かつて若き日に、人との関わりを諦め、理解と共感を途中から捨ててしまった私が、今こうやって再び弟子や家族に囲まれている中で、さらにもう一つ上へ登ることができたのは、意外な天の采配かもしれない。
息子にも、自ら問い、語り、そして人に囲まれるような人生を送っていてほしい。一緒に過ごしながら、今日はそんなことを思う。
シバンの月 7日
安息日。
今日は、仕事ではなく個人的な用事として、カミルら数人の弟子たちを私の家に呼び、食事をした。
先生が家に呼んでくれるなんて、と珍しい誘いに彼らは喜んでやってきた。
妻が昨日のうちに用意しておいてくれた食事を食べながら、たわいもない話をしていたが、しばらくして、思い切って本題を切り出した。
ここ一週間で考えていた、西方へのルート拡大の計画の事だ。
カミルとトマシュは、先月、そういうことはまだ早いという結論になりましたよね?と目を丸くして、直接商会には関わっていないバラクでさえも、急な話ですね、と首をかしげていた。
私は弟子達の問いに答えあぐねていた。先月も確かに彼等に似た様な事を話したが、その時とは全く違う。
説得はしたいが、決断に至った本当の理由を告げることを躊躇していた。
新たな病、死の危険にまで自ら向かうなどと、そんな旅路に誰がついてくるだろう。
すると最年長のダニエルが、先生は何も意味がないことはしない、きっとなにか事情があるはずだから私は賛成する、と言ってくれた。
他の弟子たちも何か感じたのか、私たちも先生を信じたい、どうして今なのか、本当のことを言ってほしいと言った。
私は、彼らを信じて打ち明けることを決めた。もちろん、それを聞いて拒否されることも覚悟していた。
だが弟子たちは一瞬目を見合わせたものの、しばらくすると、分かりました、全力で先生を補佐します。と力強く頷いてくれた。
この時ほど、驚いたことはない。私の考えなど、小さな枠でしかなかった。弟子たちは、私などよりよほど立派だ。
……彼らに深く感謝した。
私を信じてくれて、ありがとう。