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シバンの月 15日

今日の集会で、イングランドへの販路の拡大について、弟子の全員に同時に通達した。


また、旅に同行する気のあるものを募集した。

あまり大人数では行けないが、熟練の弟子も含めて広く募集する。


ずっと話を一緒にしてきてくれていたバラクが真っ先に手を上げたが、お前には、こちらで教団を支えてほしいと言ってやんわりと断った。


それでは、と今度は自分の直近の弟子のラディスラフを紹介してきた。

ラディスラフはまだ若いがやる気がある、いずれイングランド方面に拠点を置くならば、彼くらいの若く気概が有るものもいいはずです、と推してきた。私は、喜んで了承した。

他にも何人かが申し出たが、そのたびに私が判断していった。


同行者の候補が大方出そろったところで、あとは各自に連絡するとして、解散とした。


話し合いの後、意外と教団の方の古株は選ばれませんでしたね?とカミルに不思議そうに尋ねられたが、

そんなことはない、お前なら連れて行ってやってもいいぞ、とはぐらかしておいた。


……彼には感づかれてはいないだろうが、バラクを連れていけなかったのも、実は同じ理由からだった。

しかしやはりこれは、私の心に留めておく。

もしかすると、誰よりそれを恐れているのは私かもしれない。

何とも、情けない話だ。

シバンの月 16日

昨日の集会をふまえて、近しい数人の弟子とともに、今度のイングランド行きに連れて行く弟子を選ぶ最後の話し合いを行った。

希望した者には、先だって決めた通り、旅の先に待っているかもしれない病の脅威についても伝えた。

ここで最後の数人にしぼられる。


旅費や案内人などについては手配済だが、それぞれ各自の準備は2週間の間に済ませるように伝えた。

イングランドへの道中の国でも、仕事の手掛かりをつかめるはずだ。

弟子達にも良い勉強になるだろう。


私は後見として同行するということになっている。

後継の弟子のお手並みを拝見といったところだ。

あくまで販路の拡大という看板を掲げている以上、この旅の本来の目的は私の中にだけとどめておくつもりだ。

弟子たちも、危なくなったら、すぐにでも国に返すつもりでいる。


ただ、弟子の成長は素直に楽しみにしているし、少し物見遊山の気分でもいる。

まだ見たことのない都市、知識、食物、人々。

年甲斐もなく好奇心が刺激される。

良く考えても見れば、実際に、海を見て渡ろう、というのも初めてだ。

この年になってもまだ挑戦できるというのはありがたい。


明日から本格的な準備を始めることになる。


だが、その前に行っておかなければならないところがある。

これが私にとっては一番大きな壁かもしれないが……

決心はついている。

​前へと進む、そう自分に言い聞かせた。

シバンの月 17日

夜のうちに、妻に、私の実家への旅に同行してくれないか、と提案した。

この大事な時期に?と言われたが、今でないといけないと強く言った。


カミルには、昨日の時点であらかじめ話をしていたが、商会はしばらく自分があずかるといって快く了承してくれた。

先生がイングランドに行くときの予行練習になりますよ、などと言う。やはり頼りになる男だ。


妻も、なんとか了解してくれた。

今回は息子もつれていくことにした。

よく考えたら、二人を連れていく初めての里帰りかもしれない。

息子は初めての場所に、楽しそうに旅支度をしていた。


私が実家に戻ることは、正直少し怖く思う瞬間もある。

だが、不思議と妻に本当のことを話してほしいといったあの夜から、息子や妻の目に、私の故郷はどのように映るのだろうか、という楽しみの方が大きく湧いてきていた。

妻や息子に対して今まで少しだけ感じていた後ろめたさが消えていったためか。

恐怖よりも、今の私のままであそこへと行くのだ、という決意と、妻たちを連れて行く、という責任感の方が強くなっている。

昼には出立するつもりだ。

ゆっくりと行くためには、少しでも距離を稼いでおきたい。


護衛をかねて、ラディスラフら若い弟子たちが途中まで付き添ってくれることになった。

旅の安全を祈って、他の弟子たちも挨拶にきてくれた。

私も、この旅が無事に終わることを願っている。

シバンの月 18日

今日は一日、移動に費やした。

実家には急いで行けば一日半くらいでたどりつけるだろうが、息子や妻に無理をさせるわけにはいかない。

歩調は落とし気味にし、ゆっくりと宿で休んでもらうことにした。


夜、妻と息子が寝てから、同行してくれていたラディスラフに話を聞いていた。

彼は私とイングランドへと行くことがすでに決まっているが、こうして二人でゆっくり話すのは初めてかもしれない。


世間話に混じり、彼が私の商会にはいった理由や、家のことなどを聞いていた。

彼も、本当にごく普通の青年だ。はにかむような笑い顔は、まだ幼くさえある。


彼が言うには、バラクに推薦された時は驚いたが、自分でよければ、と誇りをもって引き受けたという。

病のことも恐ろしくはないのか、と聞いたが、それよりももっと勉強して、工房や商会や人の役にたちたいから、ためらうことはなかったと言っていた。


一緒に行けないバラクさんのためにも、自分が頑張ります、と言ってくれた。

……立派な若者だな。バラクが推したのも頷ける。本当に心強い。


とりあえずはこの旅を無事に終えて、次はイングランドに共にいこう、と声をかけた。ここからの彼の成長が楽しみだな。

シバンの月 19日

実家への中間地点に差し掛かった所で、予告通りに迎えが来ていた。シモンの使いだというので、ありがたく馬を借りた。

ここまで付き添ってくれた弟子達に別れを告げ、実家に向かう。これでかなり移動が楽になるだろう。息子は、珍しい馬での移動に喜んでいた。

夕暮れ時には、実家近くの宿に行くことができた。明日はいよいよ実家へと赴くことになる。

使いの者は、シモンからの伝言を私に伝え帰って行った。

私はその表情をすこし伺っていたが、それほど嫌悪感を持たれているわけではないらしい。それに関しては少し安心した。


ついに明日か、と思うと、少し心が揺れる。

私の不安を知ってか知らずか、先生の家、早く見てみたいですね、と妻は笑って口にだしてくれた。

何も知らない息子は穏やかな寝息をたて眠っている。……そんな姿にも少し心が癒えたものの、今晩に限って実家での抑圧された生活を夢に見ては、眠りから何度も目覚めてしまい、自分の意外なもろさに気づく。

今回の訪問は、私以外にも商会のことや弟子たちの事と関わっている。

私一人、怖気づいているわけにはいかない。なんとか乗り切らなければ……そう思えば思うほど、眠れなくなる。


そんな私の緊張感が伝わったのか、妻も目を覚ましてしまった。

何でもない、と私が言う前に、まるで息子にするように額に寄り添うと、大丈夫、皆が居ます、と言った。

……私は、おそらく、初めて、誰かに縋ったように思う。

もう、独りで頑張れなくてもいいか?……と、思わず口から転がり出た言葉に、妻は黙って頷いてくれた。

いつの間にか、私は眠りに落ちて、朝を迎えていた。

……あんな時でないと、きっと言えなかった言葉だったろう。

こんな自分の弱さを認めることを、私はずっと避けていた。だが、この思いは拒絶しなくてもいい。

その上でまた立ち上がればいい。

私は、今、一人ではない。

シバンの月 20日

朝早くに、宿を出て、実家にむかった。


使いの者の伝言では、妻と息子は実家の前までの付き添いで、そこからは私一人で行くこととなっていた。

ゆっくりと歩いていくにつれ、見慣れた街並みがそこかしこに並び始め、やがて、大きな石造りの屋敷の前に辿り着く。

妻は、ずいぶん大きいんですねえ、と驚いていた。

家は裕福だったからな、と妻に説明していると、門の前にシモンがやってきた。

妻と息子をじっと見た後に、私だけを招き入れる。


シモンが私を伴って行ったのは、庭を抜けた先の……忘れたくても忘れようのない、私が過ごした、離れの家だった。

ここが一番人が来ないので、とシモンは言うが、私が若いころ、家にかつて連れ戻され、この場所で閉じこめられ続けた数年の記憶が流れ込んでくるようで、思わず立ち尽くしてしまう。

シモンは、大丈夫ですよ。と肩を抱き、私を中に促した。


中には私の部屋の名残はなにもなく、綺麗になっていた。

シモンは一息つくと、先日、あなたから手紙をもらって、私は嬉しかったのです、と切り出した。

そのあまりに意外な言葉に不可解な顔をしている私に、彼は私が出ていった後の事を含め、こんな事を言った。


弟さんも、お父上も、亡くなる前まで決してあなたを忘れていなかった。家に背いたことに対して、貴方にはかつて厳しい責任を取らせたが、あの数年を超えて、あなたが改めて家を出ていく少し前、家のために働いてくれようとしていたときは本当に嬉しかったのです。

そして今、あなたはさらにご立派になられた。今からでも、この家にあなたの築いたものを持ち込み、私たちと一緒にやってみる気はありませんか。と。


……一日、答えを待つ、と言われた。

だが、言うまでもなく、私の心は、既に決まっていた。

シバンの月 21日

昨日、実家でシモンに、私たちの事業を提携しないか、と誘われた事について。……


私は、その場で、すぐに断った。

確かに、商人としては、魅力的な話だとは思った。

だが私には、新しい土地で共に働いている弟子たちがいる。

彼らを信用しているからこそ、彼らと一緒に最後までやり遂げたいと、そうシモンに強く訴えた。

私の言葉を聞き、シモンは仕方ない、とあきらめてくれたようだった。だが困ったことがあったらいつでも言ってきてくれといい、約束通り、西方への旅の協力をしてくれた。


帰り道、あれほど恐ろしかったあの家が、少しだけ違って見えた。

……抱え込んだ蟠りが、ゆっくりと溶けていくようだった。


かつての自分と対峙した時、恐怖を乗り越えるとともに、私の心を変わらずに支えたのは、昨日の言葉だった。

妻は、昨日のことは、何も言わなかったが、あの後、ずっとそばにいてくれていた。


今日の安息日が終われば、また私たちは、我が家へと戻ることになる。

私は、余った今日の一日を使って、妻と息子に、私の故郷を案内することにした。


私の生まれた街は、ユダヤの商人がたくさんいて、建築業やいろんな商売が盛んだったこと。

弟に家督を譲り、自分は結局家を出ることになったが、

実家の手伝いをしたことが、今の私の助けになったかもしれない事。


弟の墓にも、ようやくゆっくりと行くことができた。

美しい街並み、建物。

遠く離れてはいたが、かつてここで学び、色々な人と出会ったこの街並みを、私は愛していた時もあったこと。……


そのことを今、ようやく思いだせた気がする。

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