シバンの月 8日
先週悩んでいたことに答えが出始めて、晴れやかな気持ちで、週の初めのこの日を迎えた。
カミルは昨日の話を聞いて、西方の物流などについて調べ始めたらしい。トマシュは旅にかかる諸経費を計算してくれている。
バラクは旅に持って行けるような薬や役立ちそうなものを工房で見つけておくと言ってくれた。
教団のほうでも、ダニエル達が西方の国々の歴史や言葉、文化などで知っておくべき事を、書物や宗教家の情報網を使っておこなってくれるとのことだ。
来週のこの日にでも、商会や工房で働く人々に通達できるようにと、各々で動き始めてくれている。
本当に頼もしい弟子たちに囲まれている。
私自身は、自分で少しでも西方の病に関わる情報を調べることにした。多くは、大学の教授に手紙で資料を依頼している。
備えは万全にしておきたい。
……だが、旅立ちに際し、病とは違う、もう一つ大きな問題があるが、それは昨日の時点では言うことはできなかった。
場合によっては病よりも恐ろしいことだ。
あの学生の静かな忠告が蘇ってくる。
私自身はどうなろうと構わないが、弟子たちにその責は負わせられない。これは人選についても大きな責任が伴うから、慎重に行おうと思っている。
普段の商会の仕事も忙しいが、これからはさらに忙しくなりそうだ。気が抜けない日々が続くが、充実感は高まっている。
シバンの月 9日
朝方に、隣の宿屋の女将のカテジナが、私の家にやってきた。
なにかと思えば、街の細工店の子が、あんたに言いたい事があるってわざわざ居所を探しに尋ねて来たよ、とのことだった。
ああ……。私としたことが、うっかりしていた。
頼んだはいいが自分の情報を全く伝え忘れて帰っていたとは……。あわててあの店に走った。
到着すると、アンナはやっと来た!と声を上げた。私は非礼を詫びたが、逆に、おじさまってもしかして有名人ですか? 女将さんに風貌を伝えたら、すぐわかってくれましたよ、と悪戯っぽく笑った。
一瞬言葉につまったが、アンナはさほど気にする様子もなく、店の奥から、頼んでいた品物を取り出してきて手のひらに載せてくれた。
彼女に渡した琥珀の玉の周りには、柔らかく包み込むように、小さな銅の網籠のような細工が施されていた。
つややかに磨かれた銅の籠は、植物の蔓の意匠のようで、隙間に小さく収まる琥珀は、蔓に包まれて眠っているようだった。
銅細工の先端には紐が括りつけられ、首にかけられるようになっている。
その玉、落ちないようにするの大変だったんですよ、とはアンナの弁だが、この細かい作業を彼女が行ったとは……。
琥珀の由来を知っているかのような意匠に仕上げていたのにもおどろいたが、これは才能だと思う。
お礼を言って、代金を支払おうとしたが、初めてのお客さんだから、と彼女は受け取ってくれなかったばかりか、奥さんと仲よくしてくださいね、と見送ってくれた。
何から何まで、世話になってしまった。
今度、弟子たちにもこの素晴らしい細工師を紹介しておこう。
どうか、彼女に幸多からんことを。
シバンの月 10日
昨日受けとった妻への贈り物を見ながら、今日の日記を書く。
みれば見るほど美しい品で、嬉しくなる。
きっと妻も喜んでくれるはずだ……。
……。なんということだ。
今しがたの事だが、急に部屋の扉が叩かれ、妻が私を呼んだ。
とっさに手に持った首飾りを机に隠すのが精いっぱいだった……。机の上に広げていたこの日記を隠す暇がなく……。
それはなあに?と入ってきた妻にのぞきこまれてしまった。
あわてて閉じたが、思いきりじっと見つめられて、気まずいといったらなかった。
私の日記だ、と動揺を抑えて伝えたが、そうなんですね、と興味深く見つめられてしまった。
勝手に読みはしませんよ、と妻は約束してくれたが……。
以前に私が書いた自叙伝の推敲では妻にも随分と付き合ってもらったが、この日記に関してはわざわざ見せる気はないからな。
しかし妻の視線があると思うと、この後は微妙に日記が書きづらい。置き場所を変えるかな……。
いや、妻の言葉を信じなくてどうする。
あえてこのままにしておく方が健全だろう。
それにきっと妻には読めない。趣味で色々試していてよかった。
これからは、少し気をつけておかないとな。
シバンの月 11日
西方への旅に出ることが殆ど決まり、私も長く留守にすることを考えて、今日は教団で荷物の整頓を行っていた。
教団の建物の中には私の部屋もあり、そこには私物がいろいろと転がっているが、普段はあまり表の目に触れないような実験材料や、禁術の薬が置いてあるので、他の者は入ることのないようにしている。
教えの基本とする瞑想などと違って、錬金術等はほぼ趣味の域であったが、こうやって製薬商会のような形で実を結んだのは、意外なことであった。
数は今では少なくなったが、私のこれまでの系譜と呼べるような品物がここにはある。
……しかし、私の最初の始まりはこれらではない。
私はかつて学問を修めるうちに、その思想と儀式に魅せられ、無理やり家を出て、この世界に入ることを選んだ。
その頃にかつての師匠から受け継いだ教えが、いまも私の中の基本を形作っている。
だが若すぎた故か、次第に私は周りが見えなくなり、やがて実家に連れ戻されてからは、全てを失った。
全く、私は愚かだった。全てを私が壊してしまったのだから。
その後、正式に独り立ちして家を出ることを許されるまでそれらを取り戻すことは出来なかったが、今はまた新しい形でここに残すことが出来ている。
これを償いだとは思わないが、誰かの分まで、私が残せるものは置いていきたい。
教団は私が思った以上に大きくなり、弟子も大勢集まった。
私も人に教える立場になるとは思わなかったが、結果としては、私の人生をかける意味にもなってくれた。
どうか、この先へと繋がっていけるように願う。
シバンの月 12日
この前出したシモンへの手紙の返信が、ようやく届いた。
良い返事がもらえるかどうかは半々であったが、開けてみると、私の西方への旅を支援してくれるとの一文があった。
まさかとは思ったが、これで西方行きの道案内や、移動経路の幅が大きく広がるだろう。素直に感謝した。
だが、手紙の最後の一文を見て、固まった。
私に一度、実家に戻るようにとの追伸だった。
今回の旅の支援者の紹介や詳しい話はそこでする。
返事はいらないから、もしも来る気が有るならば、今月19日に、この街と実家を結ぶ街道に、使いの者を待たせておく、とあった。
……これは、半分強制、ということなのだろう。
来なければ協力しない、という文面にも読めた。
やはり、簡単にはいかなかったようだ。
私は静かに手紙を閉じ、窓の外を見つめた。
実家へと、行く。……
……最後に行ったのは、弟が死んだ時だ。
私は葬儀の時も、親族たちが並ぶ後ろで、近隣の人々に紛れて静かに立ち、弟がたくさんの人に慕われているのを、遠くから他人のように見つめていた。
私が家を出てからずいぶん後のことだった。
とうとう一言も話せないまま、私は帰路についたのだった。
あの家へと行かねばならない。
少しだけ胸がざわつく。……だが、いまさら後にはひけない。
シバンの月 13日
弟子たちを呼び、ようやく西方への出立の足がかりができたことを伝えた。
来週には協力者の元へと向かうことも同時に伝えてある。
今日は最終的な行先を決めることにしていた。
私は、教授からもらった資料で、西方の国の中でも、南寄りの地域がより被害がひどいことを伝えられていた。
行く道中ですぐに非常事態になるわけにはいかない。
この国からまず北側に出て、沿岸伝いに、逆側の北寄りのルートで向かうことを提案した。
弟子たちとの相談の末、最終的な目的地をイングランドと定め、これを通達することにした。
あくまで表向きは薬品商会としての販路の拡大を第一の目的として、黒き病のことを他の弟子たちに伝えるかどうかについては、意見が割れた。
最終的には参加を希望したものにだけ伝え、それ以外の者には伝えないこととした。
もしも希望した者でも、それを聞いて拒否するのは一向に構わないとし、それで同行者がいなくなっても、私だけでも向かう。
大分構想が固まってきている。
……弟子たちは、もう大丈夫だろう。
あとは、妻と息子と、ちゃんと話をするだけだ。
ようやく、私のなかでも、決心がついた。
シバンの月 14日
安息日の夜。妻の後ろ姿を眺めながら、私は話しかけるタイミングをうかがっていた。
そんな私のそわそわとした空気を感じたのだろうか。先生、何か私に言いたい事があるんじゃないですか?とあちらから声をかけてきた。
私は、意を決して、本当のことを言ってくれないか、と聞いた。
初めて西方に出かけると打ち明けた日、反対することなく、受け入れてくれた時は嬉しかった。
だが、本当はどうなのか。行かないで欲しいと思っているのではないか。もしくは身勝手な私に愛想をつかせて、もう、別れてしまいたいと思っているのではないか。
今なら、まだ私は君の望むようにしてあげられるから言ってくれ、と訴えた。
すると妻は少し黙って、それはちがいますよ、と言った。
私は、先生がしたいことは、何でもきいてあげたい。
だって先生は、それよりも最初に、私の一番の我儘を聞いてくれた。
私が先生を大好きで、先生も私を受け入れてくれたこと。
結婚して、可愛い息子を一緒に育ててくれたこと。
先生の我儘なんて、かわいいもんです。
私は、誰よりも一番、先生に望みを叶えてもらいましたから。
と、とびきりの笑顔で私に告げた。……
思わず手を伸ばしたが、私よりも先に、妻の方がゆっくりと抱きしめてきた。
……私は、なんと言葉にすればいいのだろう。暖かいこの感覚を。
言葉にできないことは、そのままにしておくのもいいだろうか。……
ありがとう。話ができてよかった。
これで、もう、迷いはない。